近畿大学通信で司書資格を取得した記録

近畿大学の通信課程で図書館司書資格を取得しました(2018年度)

図書・図書館史 科目終末テスト(回答例)Q1~Q5

※設問の後ろのページ数は2018年度版テキストでの回答に使った参考ページです

※テスト課題は添削されていないので不正解の可能性もあります。あくまでも回答例です

※自分の勉強用にまとめただけのものなので誤字脱字あります 

 

<設問>

Q1. 古代アレクサンドリア図書館の歴史的な意義を述べてください。⇒p.60

 古代の文明は王権と神話とが癒合しており、アレクサンドリア図書館は、王権によって建てられた、古代・中世を通じて世界最大の規模を誇る、ヘレニズム文化を代表するパピルス本の一大コレクションであった。 アレクサンドリア図書館を作ったのは、エジプトのプトレマイオス1世で、アレクサンドリアを貿易の中心、学問の中心としてギリシャ文化の保護と発展に力を注いだ。博物館と並んで当時最大の知識の生産所であったアレクサンドリアの学問を求めて世界各地から図書館を訪れる人々による外貨の利益で都市は益々豊かになった。

 プトレマイオス2世の時代になると、文献収集に一層熱心になり、ギリシャの文献すべてを収集する構想を描いた。図書館には写本を専門とする職員がおり、書写生の要請も行い、写本は図書館の蔵書になると同時に市販もされ、図書館と出版局の機能が一体化していた。

 アレクサンドリア図書館長は国王により任命され、ヘレニズム文化最高の栄誉職とされた。カリコマスという図書館長もしくは職員は、「ピナケス」と言う主題分類・アルファベット配列の総合目録を作り、その後の目録に大きな影響を与えたと思われている。

 アレクサンドリア図書館はヘレニズム文化のかなめであり、学術文献の収集だけでなく、目録の編纂、辞典類の編集、翻訳など、資料保存と研究・生産を一手に担っていた。

 

 

Q2. 西洋中世の修道院における写本生産の歴史的な意義を述べてください。⇒p.70

 中世の文明はキリスト教の発展とともにあり、図書館も修道院とともにあった。ヨーロッパ各地の修道院に図書館が作られ、図書館は文化のかなめとなっていた。

 図書館の重要な役割の一つが、写本生産であった。修道院図書館には写本室が設けられ、写字生という専門家たちが主にキリスト教関係の図書やギリシャ・ローマの古典類の書写を行った。修道院図書館は、図書生産の中心であり、文化保存の場でもあり、中世文化が修道院に集中されていただけでなく、古代ギリシア文化遺産の継承に大きな役割を果たしたことにも歴史的な意義を見出すこともできる。

 また、中世の修道院は当時の唯一の教育機関であり、その後中世後期に大学が台頭するまで、修道院は学問の中心とおして、教育の橋渡しの機能を有していた。

 

Q3. 徳川家に関連した文庫と、その後の展開について述べてください。⇒p.31

 徳川家に関連した文庫としては、紅葉山文庫駿河文庫が挙げられる。

 紅葉山文庫は、もともと富士見亭文庫と言う名で設置された徳川幕府最初の文庫で、日本最初の官立図書館と言える、江戸幕府の参考図書館であった。1602年に江戸城内富士見亭に設けられたが、1640年に火災防止のために紅葉山に移され、紅葉山文庫と呼ばれるようになった。

 紅葉山文庫は将軍の利用に供することを目的とした高度な専門書を蔵書として扱い、幕府の権力と経済力によって十分な運営が行われた。蔵書には洋書もあり、慶長御社本などの写本も収集された。幕末の蔵書は16万巻で漢籍が65%を占めていた。文庫はあくまで幕府の期間で、一般公衆の利用は考慮されていなかった。

 明治以降は新政府の管理に入り、1885年に内閣制度制定に伴い内閣文庫となった。その後は国立公文書館のない確認子に継承され、一部は宮内庁書陵部で保管されて今日に至っている。

 駿河文庫は、家康が駿河の国に引退後、駿府城内に設けたもので、国史系図、法典などの編纂と開板事業に役立てることが目的だった。駿河文庫の資料は遺命により、駿河親藩である尾張紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で分与され、駿河お譲り本と呼ばれている。お譲り本はその後、各地で、尾張蓬左文庫紀伊の南葵文庫、水戸の彰考館文庫などの蔵書になった。

 

 

Q4. 近世日本の庶民による各種文庫について述べてください。⇒p.41

 江戸時代末期になると、近世商業主義の台頭によって庶民に実利学が必要となり、また寺子屋などの発達により読み書きそろばんの重要性を認識されて文字の普及が促進されたことにより、庶民の読書機関としての文庫が出現するようになった。

 特に有名な文庫として、浅草文庫や青柳館文庫がある。

 浅草文庫は、徳川家康の侍医でもあった図書収集家により作られ、江戸時代最初の公開図書館であったと言われている。医書だけでなく一般の和漢書も収集し、一般の閲覧に供して、また出版も行って居たと言われている。

 青柳館文庫は、仙台藩に献上された私有の2万巻余りの蔵書と千両でつくられた。仙台藩はこの文庫に今日の司書ともいえる目付を配置して公費で運営し、一般庶民に公開した。東北初めての公開図書館であり、図書の帯出制度もあり、管理運営は近代公共図書館とほとんど変わらなかった。

 ほかにも、伊勢の射和文庫など各地に庶民文庫が設立されたが、これらはいずれも一般庶民のために開かれた図書館として今日の公共図書館的な機能を果たしていたが、もともと個人的な性格の期間として出発していたことから公的な基盤が弱く、近代の図書館として発展はしなかった。

 また、江戸時代に図書館の代行機関的な機能を果たした庶民の読書機関には、貸本屋もあった。寛永期に入ると整版印刷によって出版が盛んになり、本の貸し出しが商売になり、見料を払って読むのが読書のならわしとなった。1767年に創業された名古屋の貸本屋大野屋惣八は日本最大の貸本屋で、「大惣」と呼ばれ、娯楽から学術まで広く蔵書を収集していたが、廃業後は蔵書は京都大学東京大学などに引き取られた。

 

 

Q5. グーテンベルクと図書館の発展について述べてください。⇒p.83

 1450年頃にグーテンベルク活版印刷術を発明すると、図書が大量かつ安価に生産され、一気に普及したことにより、貸出しや公開が促進され、近代図書館の芽生えにつながった。

 それ以前の図書は、専門家によって書写されて出版された大変貴重なものだったので、貸し出しには担保が必要だったり、鎖付き本が用いられたりしていた。しかし、活版印刷術によって図書は一般的になり、教育の普及が一層促進された。

 また、図書の増大は保管方法にも変化をもたらした。それまでは箱や書見台に置かれていたものが書架に並べられるようになったことで、公開が一層促進された。

 中世の図書館は書写室を併設していたが、印刷術の普及によって印刷所がとって変わっていった。

 また、1517年の宗教改革は、活版印刷術によってルターの論文が急速に広がったことも要因であった。宗教戦争で破壊された修道院図書館の資料が、権力者などに収集され、公共図書館大学図書館の蔵書になったことや、布教を目的とした新しい教会図書館が設立されたことによって、図書館の一般利用が促進されるようになった。