近畿大学通信で司書資格を取得した記録

近畿大学の通信課程で図書館司書資格を取得しました(2018年度)

図書・図書館史 科目終末テスト(回答例)Q6~Q10

※設問の後ろのページ数は2018年度版テキストでの回答に使った参考ページです

※テスト課題は添削されていないので不正解の可能性もあります。あくまでも回答例です

※自分の勉強用にまとめただけのものなので誤字脱字あります 

 

<設問>

 

Q6. 近世の本の生産と文庫、貸本屋などの事情について述べてください。⇒p.29

 江戸時代になりそれまでの中世的な分権的封建制が、徳川の幕藩体制により集権的封建制に変わると、儒教をバックボーンに天下安泰の世を迎えた。封建社会における平和は、それまで文化が貴族や僧侶だけのものだったのに変わり、幕府が学芸を奨励したこともあり、下層階級にまで伝播し、武士や町民の国民文化として栄えた。

 また、この時代には、整版本が盛況を迎え、商業出版が営業として確立した。読者人口が増えると書籍の出版販売が増え、結果として一般人にも本が流通し始めた。武士や大名の文庫、朝廷や公家の文庫、町人の文庫、幕府直轄学校や藩校の文庫、神社や寺院文庫ができた。なかでも、江戸時代末期になると、近世商業主義の台頭によって庶民に実利学が必要となり、また寺子屋などの発達により読み書きそろばんの重要性を認識されて文字の普及が促進されたことにより、庶民の読書機関としての文庫が出現するようになった。特に有名な文庫として、浅草文庫や青柳館文庫がある。

 ほかにも、伊勢の射和文庫など各地に庶民文庫が設立されたが、これらはいずれも一般庶民のために開かれた図書館として今日の公共図書館的な機能を果たしていたが、もともと個人的な性格の期間として出発していたことから公的な基盤が弱く、近代の図書館として発展はしなかった。

 また、江戸時代に図書館の代行機関的な機能を果たした庶民の読書機関には、貸本屋もあった。寛永期に入ると整版印刷によって出版が盛んになり、本の貸し出しが商売になり、見料を払って読むのが読書のならわしとなった。1767年に創業された名古屋の貸本屋大野屋惣八は日本最大の貸本屋で、「大惣」と呼ばれ、娯楽から学術まで広く蔵書を収集していたが、廃業後は蔵書は京都大学東京大学などに引き取られた。

 

 

Q7. 「図書寮」「文殿」「経蔵」をキーワードとして図書館の萌芽について述べてください。⇒p.13

 日本にはもともと独自の文字がなかったが、中国や百済から文字が伝来し、飛鳥時代には仏教が伝来すると、経典などを書写するようにいなり、紙の生産も始まった。それらを保管するために経蔵や文庫の発生を促すことになり、それが図書館の萌芽となった。

 経蔵は、経典専門書庫であり、たいていは寺院に隣接して建てられた。資料の保存だけでなく、教育活動の場としても利用されていたとされている。

 その後、645年の大化の改新で文書中心主義の律令制度が導入されると、紙や木簡に書かれた文書が命令や報告に使用された。『古事記』『日本書紀』『風土記』などの国史編纂のほかに、行政関係文書が大量に生み出されたため、それらを取集保管する期間が必要になり、文書作成能力を持った役人と書庫が誕生したが、中でも国の重要機関の一つとして登場したのが図書寮であった。

 図書寮は701年の大宝律令によって定められ、天皇の側近として最も重要な賞である中務省に属した。図書の保管、書写などを専門に扱っており、直轄の金井事業として行政資料に使用する紙を製造する紙屋院という向上もあった。現在は形を変え、宮内庁書陵部が設置されている。

 図書寮以外に間接の文書保管期間として各官司、内裏、院、摂関家、幕府などに設置されたのが文殿であり、政府の記録庫としての役割を果たしていた。とくに太宰官弁官局文殿は官文殿とよばれ、政府関係文書を保管し、またこれらを資料として公文書を作成しており、今日の公文書館に相当する機能であった。

 

 

Q8. 奈良・平安時代の貴族文庫について述べてください。⇒p.18

 平安時代中期になると、遣唐使が廃止され、大陸文化の影響が薄らぐとともに、藤原氏を中心とした国風文化が成熟した。国風文化の発達はカナ文字の成立によって文字に対する知識が普及し、『伊勢物語』『枕草子』『源氏物語』など文革の発達を促進し、書物の量が増したことにより、貴族の間で次第に学問研究のための文庫を邸内に設置するようになっていった。

 奈良時代末期の貴族・文人石上宅嗣は、晩年、仏教に帰依してから私邸を寺とし、そこに「芸亭」と称する書斎を設けて儒教の典籍を収蔵・解放した。これが日本最古の公開図書館である。芸亭では図書の閲覧だけでなく、儒仏一体の教育施設の役割も果たしていた。

 学問の神様と言われる菅原道真は、京都の邸宅に「紅梅殿」と呼ばれる文庫を所有していた。多くの図書を所蔵していたほか、道真が菅原氏一門の子弟に書庫を開放して、一種の私塾としての教育的機能を兼ね備えていた。

 

 

Q9. 鎌倉・室町時代武家文庫事情について述べてください。⇒p.24

 鎌倉・室町時代は、今までの荘園制を崩壊させ、武家勢力が浸透し、御家人制度によって封建制度が確立されたことで、武家の文化が成立し、文化が地方に拡散したことで、文化の庶民性が強くなった。また浄土宗など新仏教が興ったり、平家物語などの軍記物や新古今集などが発表されたりした。

 鎌倉時代の有名な文庫は、北条実時によって作られた金沢文庫で、実時が学んだ政治、法制、軍事、文学など広範囲の書物が文庫の基礎をなしていた。金沢文庫はその後子孫により発展し、漢籍や国書などさらに広い分野にわたり収集された。利用には規定があり、僧侶を中心とする一部の関係者に限定されていたが、関東における文化のメッカとして図書監視上際立った存在である。

 室町時代には、現代に残る日本最古の学校と言われている足利学校の足利文庫があった。足利学校は、武家への助言者を養成する機関で、入学者は僧侶に限られており、儒学を中心として易学や兵学に力を入れていた。文庫の図書は武人から寄進され、儒学関係、特に易学の典籍が豊富だった。図書の貸し出しは禁止で、閲覧は一冊のみ、書き込み・切り抜き禁止などの規定があった。

 

 

Q10. 近世の大名文庫事情について述べてください。⇒p.32

 徳川幕府儒教を中心とした文教政策に力を入れたが、「大名も天下泰平について文教振興を促進して文庫を設けるようになった。なかでも、御三家と呼ばれる尾張紀伊、水戸には、徳川家康駿河文庫の資料が分与され、貴重な文庫となった。

 駿河文庫は、家康が駿河の国に引退後、駿府城内に設けたもので、国史系図、法典などの編纂と開板事業に役立てることが目的だった。駿河文庫の資料は遺命により、駿河親藩である尾張紀伊、水戸の御三家に5:5:3の割合で分与され、駿河お譲り本と呼ばれている。お譲り本はその後、各地で、尾張蓬左文庫紀伊の南葵文庫、水戸の彰考館文庫などの蔵書になった。

 蓬左文庫は、御譲り本3000冊を基礎として名古屋城内に設けられた文庫で、昭和25年に名古屋市に譲渡され、現在約11満点の蔵書がある。

 南葵文庫は、もとは偕楽園文庫と称されていたのを、明治35年に東京都麻布区の徳川頼倫の自宅に移して私立南葵文庫として一般に公開した。座席数320、音楽界や読書会、児童会などの図書館活動も行われ、閲覧料も徴収されなかった。関東大震災後に東京大学総合図書館に蔵書が寄贈された。

 昭王館文庫は、徳川光圀により最初は江戸に開設され、後に水戸に移された。現在は一部の資料が彰考館徳川博物館の彰考館文庫に引き継がれている。

 御三家のほかにも、加賀藩前田家の尊経閣文庫や、佐伯藩の佐伯文庫、薩摩島津藩の春叢文庫など、各地に大名文庫が作られた。